think think...Think!

Kitsuneno_png 先週末になりますが、雨が降っているのに西の空は夕焼けという珍しい夕方がありました。しばらく使ってなかった一眼レフで撮りました。

庭に初めて咲くオルラヤは、最初はもったいなくて一輪切るのも勇気が要りましたが、惜しげもなく次々と咲いていく姿に、繊細な花や葉の底にある強い生命力を感じます。

植えるなり台風が来たり、異常に暖かかったりしても、しっかりと使命をまっとうしています。すごい!

Oruraya_0320_pig 家にいる時間が長くなっていますが、全部悪いことばかりではないです。

 

新型コロナウィルスの感染対策をめぐって、これまで考えたことのなかった事をいろいろ考えさせられています。

不確かな情報も多いなか、ドイツのメルケル首相の演説がすごく印象的でした。国が違うのだから状況も違うとはいえ、これくらい分かりやすく方針を示してくれたら、いち市民、いち母、いち音楽家として日々判断を下さねばならない場面でも、迷いが少なくなります。メルケルさんが、こんな状況のなか頑張っている(ざるをえない)仕事の方々への感謝の言葉を忘れなかったことも素晴らしいと思いました。

 

全文翻訳のリンク

 

https://www.mikako-deutschservice.com/post/コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文?fbclid=IwAR1k8UASRDoj6kVegz7tH-4-DLjq5hE0p8ShbhI49TANaK8ihbShr1VlbUw

 

私も予定していたライブや海外とのプロジェクトが延期になったり、音楽活動への影響が出ていますが、この機会に、ここ2,3年先延ばしにしてきたソロ・プロジェクトに着手することにしました。

今日は、先日神戸100BANホールで真夜中に録音したピアノに、自宅で声を録音して重ねる作業(独りで出来る環境です、この環境を作ってくれた全ての方々へ感謝します)へ。

Dsc02159 ライブが出来ないとき、音楽家にできることはなんだろう?

新高校生活を迎える息子のためできること、息子自身ができることは?

またこのような事態が起きたとき、もっと迅速に判断するには?

 

いつも社会を支えてくれる人たちにあらためて感謝しながら、自分ができることを一つでも考えて実行!

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なんばしよったとやバースデイ

_png 中学生ごろ、思春期だった私は父を無視し続けていたが、面と向かって逆らうなんてことはとても考えられなかった。

共働きの両親は対等に見えつつも、「お父さんはすごく偉いのだ」と感じさせる空気が家のあちこちにあって、父が発する言葉はいちいち重みをもって聞こえたし、ほかにも「お父さんが帰ってきた!」と言ったら、母に「帰ってきんしゃった(博多弁の敬語)」と正されたことなどを覚えている。
また、父は私が小さいころから、女性も仕事を持って自立するのが当たり前と言って、本当にピアノが好きなら高校からでも音楽学校に行けばいいとも言っていた。厳しい父では全然なかったが、簡単に口ごたえなどできる相手ではなかった。

そんな父との忘れられない晩御飯といえばこの夜。

私は高校2年になるところで、父とも普通に話が出来るようになっていた春のある日、それは父の誕生日。
母は、お祝いの晩御飯を一通りの準備をして叔母と出かけていた。
そのころ蘭に凝っていて、どこかに買いに行って遅くなったと記憶している。
支度を整える私はそわそわからひやひやとなり、父はぐらぐらと苛立っていた。

そこへ、花も負けんばかりの笑顔で母が帰宅。

「なんばしよったとや」。

「(ハッ)・・ごめんなさい」。

父、母、祖母、兄と私がお膳について、母がご飯をよそって手渡しても父はむっつりと無言であった。

そのとき、ありえないことだが、なにかがとり憑いたみたいになって私の口から言葉が飛び出た。

「お父さん、いつまでそんな顔しとうと?」
「いいと、お母さんが悪いと」という母の言葉を遮って、

「お母さん謝っとったろ?だいたい今日はお父さんの誕生日なだけじゃないとよ。お兄ちゃんが大学に受かったお祝いで、これからお兄ちゃんが東京行ったらもう一緒にご飯食べられんちゃろ?お父さんがそげん顔しとったら、せっかくのご飯が美味しくなかろうもん!」

そこらまで言い放ったあとは言葉になってなかったと思う。

父はたいそう怖い顔でだまって聞いていたが、

やがてぼそっと、
「ごめん、お父さんが悪かった」。

顔を上げるとお兄ちゃんもおばあちゃんも泣いていた。
そのあとの父は、祝い酒も入ってすっかり気分がよくなり、「今日は初めて芳に怒られたやねー」と嬉しそうに何度も言って、みんなで笑った。


戦争を含む激動の時代に育った父は、例えば「男子厨房に入らず」と教えられたのに、日常的に台所に立つようになった人。
そんなふうに自分を変えられる能力を、私は知性というのだと思う。

この高校時代くらいから、私は父を心から尊敬できるようになった気がする。

 

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がめ煮

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小学校の先生だった母が遅くなる日の晩ごはんとして、「かしわご飯」や「がめ煮」があった。

 かしわご飯は、お嬢様育ちで殆ど家事をしない祖母の、唯一と言ってもいいレパートリーで、「鶏の皮までこまかごとして入れとうけん(小さく刻んであるからそれとは気付かず食べられる)」というのが自慢だった。
がめ煮は、いわば筑前煮で、母が前夜から用意する。
骨付きの鶏肉に、大根、人参、蓮根、牛蒡、里芋、こんにゃく、厚揚げ、こんぶなどが無水鍋いっぱいにしみしみと煮含めてある、私の好物でもあった。

私が高校生の頃、生まれたときから一緒に住んできた祖母は、昼間一人にするのが危ないくらいに老いて、施設に入った。食事が口に合わないという姑に、母は仕事から帰宅して煮魚などを作って、差し入れていた。
大学受験の直前、会いに行った祖母はかなり弱っていたが、私が受験してくることを話すと手を伸ばしてきて、とてもとても強く握ってくれた。
骨と皮だけの腕の先から出てきた驚くべき力を、私は今でもはっきりこの手に感じることが出来る。

その夜、父は不在だった。三つ上の兄はすでに東京の大学で下宿生活。
昼間のうちに来るはずの合否通知を待ちわびて、私は日がな一日を悶々と過ごし、いつしか眠ってしまっていた。
落ちたんだなと思った。
帰宅したばかりの母には理由がわからなかったようだが、しゅんと食卓に着いたところにチャイムが鳴り、書留が合格を知らせた。

それでふて寝しとったとね、と母は笑った。
私立の音大を受験するつもりでピアノに打ち込んできたのに、夏頃になって心変わりして受験した国立大学は、担任からはまず無理と言われていたし、一次試験も厳しい結果。
しかし自分で進路を変えて以来は、猛烈に勉強したので、もう悔いはないと日記に書いたのを覚えている。
同時にどこかで合格を期待してもいたんだろう。
母と二人きりのお膳で、こんにゃくを噛むと、ぽろぽろと涙が出た。
ああ、あたし受かったんだ。涙といっしょに、こんにゃくを飲み下す。
そして別の具材を口に入れると、また涙が込み上がるのだった。
そんな私に母は、よかったね、と何度でも言ってくれた。

それからずいぶん後になって、「女の子は一度家を出たらもう戻ってこんよ」とよく周りに言われたと母は話した。
よかったねと言いながら、どんな心持ちだっただろう、と息子が高校受験の歳となった今、思う。
がめ煮は、まあまあ、、私の得意料理になってきた。

 

 

 

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